当塾は第1期生と第2期生は中3しかいなかった。2年目には開邦高校の合格者を出していた。
場所は自宅マンションの一室だった。最初は中古の食卓とパイプ椅子とホワイトボードを買ってきてはじまった。
2年目に生徒数が4名になり学校用机と椅子を10セット購入した。
教材会社から「そろそろ通りに出て勝負したほうがいいですよ」
といわれた。
「まだまだそのときはきていない」
とかいいながら第3期生では中1、2の問い合わせが多く「中1、2生もやってください」といわれてはじまった。
中1,2とわが家に遊びにきていた近隣の「受験をしない」小4,5に社長が勉強を教えていたことから自然発生的に小学部はできた。すぐ生徒さんは増えて、結局テナントを借りざるを得ない状況になった。
そして
「通りに出て勝負」
することになった。場所は汀良町2丁目だった。これも必要に迫られたのである。
第1期、2期生が高校に入り「高校になっても教えてほしい」といわれて高校部ができたのである。
中学受験部は第4期で移転と弘文館との合流で、以前の弘文館の流れに乗って先代の塾長の助言のもとではじまったのだ。
決して欲張ってあれこれと手を広げてるのではない。これはニーズを汲むことの責任でもあるのだ。
中学までで終わりの塾が多い、しかし、私から見たら高校まで入れればいいのか?という思いがある。あまりにも無責任ではないだろうか?塾に大学受験や高校生を教える力量がないのかとも思ってしまうのだ。
中学受験も大きな塾や生徒を叩く塾が今でも現存する沖縄で少人数でじっくり付き合える塾が1つくらいあってもいいと思うのだ。方程式を自在に使い、国語読解もできて、理社も本質を理解して納得できる指導、中学入学を見越した英語、そして英検・数検・漢検対策といった資格取得のサポートと生徒さんや親御さんのニーズに応えていくのだ。
これからもこのスタンスは崩さない。そして前進していく。
沖縄の未来、生徒さんの将来のため
全力を尽くしていくのだ。
場所は自宅マンションの一室だった。最初は中古の食卓とパイプ椅子とホワイトボードを買ってきてはじまった。
2年目に生徒数が4名になり学校用机と椅子を10セット購入した。
教材会社から「そろそろ通りに出て勝負したほうがいいですよ」
といわれた。
「まだまだそのときはきていない」
とかいいながら第3期生では中1、2の問い合わせが多く「中1、2生もやってください」といわれてはじまった。
中1,2とわが家に遊びにきていた近隣の「受験をしない」小4,5に社長が勉強を教えていたことから自然発生的に小学部はできた。すぐ生徒さんは増えて、結局テナントを借りざるを得ない状況になった。
そして
「通りに出て勝負」
することになった。場所は汀良町2丁目だった。これも必要に迫られたのである。
第1期、2期生が高校に入り「高校になっても教えてほしい」といわれて高校部ができたのである。
中学受験部は第4期で移転と弘文館との合流で、以前の弘文館の流れに乗って先代の塾長の助言のもとではじまったのだ。
決して欲張ってあれこれと手を広げてるのではない。これはニーズを汲むことの責任でもあるのだ。
中学までで終わりの塾が多い、しかし、私から見たら高校まで入れればいいのか?という思いがある。あまりにも無責任ではないだろうか?塾に大学受験や高校生を教える力量がないのかとも思ってしまうのだ。
中学受験も大きな塾や生徒を叩く塾が今でも現存する沖縄で少人数でじっくり付き合える塾が1つくらいあってもいいと思うのだ。方程式を自在に使い、国語読解もできて、理社も本質を理解して納得できる指導、中学入学を見越した英語、そして英検・数検・漢検対策といった資格取得のサポートと生徒さんや親御さんのニーズに応えていくのだ。
これからもこのスタンスは崩さない。そして前進していく。
沖縄の未来、生徒さんの将来のため
全力を尽くしていくのだ。