私が教えた家庭教師の生徒さんの2人目は大学受験だった。
高3の9月に相談があった。短大でトップランクのところが第一志望だった。
英語と現代文だけだった。
毎回、代々木のウェンディーズで授業。現代文は今やっている方法と同じだった。英語は即習用の教材を作成して使用した。
英語はある程度できる生徒さんだった。国語は始めた直後は新宿セミナーの短大模試で30代後半だった。
これが12月には同じも模試で66にまでなった。
自信がついていた。今頃の時期だろうか電話が来た。すでに短大は決まっていた。
「東洋英和に受かりました」
と報告があった。生徒さんはここまで勉強をしたのだから四大を受けることを決意して短大の入試が終わってから2次募集(今で言う後期入試)を受験して合格した。倍率も15倍を超えていた。
当時は受験生も多く、偏差値バブルの時代だった。たとえば亜細亜大学の国際関係学部が東大の滑り止めにもならないという予備校関係者がいた時代だった。日東駒専もなかなか入れない時代だった。
このときの経験から私は塾講師の道を歩むこととなったのだろう。
高3の9月に相談があった。短大でトップランクのところが第一志望だった。
英語と現代文だけだった。
毎回、代々木のウェンディーズで授業。現代文は今やっている方法と同じだった。英語は即習用の教材を作成して使用した。
英語はある程度できる生徒さんだった。国語は始めた直後は新宿セミナーの短大模試で30代後半だった。
これが12月には同じも模試で66にまでなった。
自信がついていた。今頃の時期だろうか電話が来た。すでに短大は決まっていた。
「東洋英和に受かりました」
と報告があった。生徒さんはここまで勉強をしたのだから四大を受けることを決意して短大の入試が終わってから2次募集(今で言う後期入試)を受験して合格した。倍率も15倍を超えていた。
当時は受験生も多く、偏差値バブルの時代だった。たとえば亜細亜大学の国際関係学部が東大の滑り止めにもならないという予備校関係者がいた時代だった。日東駒専もなかなか入れない時代だった。
このときの経験から私は塾講師の道を歩むこととなったのだろう。